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・子供の頃より写真に興味を持ち、高校生のころ、母が庭で育てる牡丹等 を写していて、花の写真に傾倒するようになった。 ・1985年に花の会(秋山庄太郎先生主催の花の写真の会)に入会。以 来毎年銀座で行われた花の会展に出品。 ・2000年7月に町田市フォトサロンで個展「花愛樂(カメラ)」開催。 ・2001年NHK総合テレビのイキイキネットワークで紹介される。 ・2001年9月に、秋山先生のお勧めで、「花の会東京町田支部」が結 成された。その後、本部の「花の会」が解散となり、「花の会東京町田 支部」は「フォト花の会」(代表:内藤武通氏)として独立し、現在に 到る。 ・2002年10月の第1回「秋山庄太郎花写真コンテスト」に「チュー リップ」で入選。 ・2003年11月の第2回「秋山庄太郎花写真コンテスト」に「バラ」 で入選。 ・2004年11月の第3回「秋山庄太郎花写真コンテスト」に「ラン」 で入選。 ・2005年11月の第4回「秋山庄太郎花写真コンテスト」に「ベゴニ ア」で入選。
2-7.2023/4/29 4月17日のフォト花の会例会に出席。 最近は、「花のマクロ写真にはどういう撮り方があるか」とうことを考えたり、調べたりして、その撮り方に合うような作品を作ることを試みています。前回は花びらを対象にして、5つの写し方で写してみました。 いわゆるアイデア発想法の中に「逆転の発想」というのがあります。例えば「主役と脇役を逆にしてみる」「上下を逆にしてみる」「表裏を逆にしてみる」というような考え方です。今回はこの考え方を応用してみました。 ①花びらより雌蕊を主役にする。 下の写真がその例で、雌蕊の先端の「柱頭 (ちゅうとう)」を主役に してみました。その際、できるだけユニークな柱頭を選び、その特徴が出 るような角度で撮りました。 カンパニュラ・パール(桔梗の一種)(自宅) ②花びらより雄蕊を主役にする。 下の写真がその例で、この写真では雄蕊の 先端の「葯(ヤク)」に焦 点を合わせました。尚、葯は花粉の入っているところです。 ツツジ(自宅) ③花びらを裏から撮る。 下の写真がその例です。一般的には、花びらの表から撮りますが、裏か ら撮ってみると、表からは見えない血管のような筋が見えたり、産毛のよ うなものが見えたりしてきます。 ペチュニア(自宅) ④花より葉を主役にする。 下の写真がその例で、開き始める葉の形が面白いので、これを主役にし ました。葉でも特徴のあるものは主役になり得ると思いました。「花は葉 が進化したもの」という説もありますし。 カンパニュラ・パール(桔梗の一種)(自宅) ⑤花より蕾を主役にする。 下の写真がその例で、特徴のある蕾をみつけて、それを主役にしまし た。花びらは、それとわかる程度にぼかして脇役としました。 ブルーデイジー(自宅) 2-6.2023/3/22 使用カメラシステムについて 本格的に写真を始めたころ、最初に購入したのは二眼レフカメラで、高校の修学旅行で北海道に行ったときでした。 そのあと、花を中心に写すようになって、レンズの交換が必要になり、ミノルタのT101というカメラを入手しました。ところが、管理の問題でレンズにカビが生えてしまいました。それからは乾燥ボックスに収納しています。 そのころ通っていた成城の写真屋さんの勧めで、コンタックスの代表的なレンズ・プラナー85mmF1.4と一番安いボディー(139)を手に入れました。 「このレンズがあれば、ボディは何でも良い」と言われたのです。接写が必要なときはクローズアップレンズを付けたり、接写用アダプターを使用しました。そのあと、コンタックスのボディやレンズを買い足して、フィルム時代を過ごしました。 デジカメ時代になって、会社の先輩で同じフォト花の会に所属されている宮﨑迪さんの勧めでキャノンのAPSカメラEOS65Ðを入手、キャノン純正の100mm(35mm換算160mm)マクロを主力とし、あと、タムロンの広角~望遠ズーム(18mm~270mm)(35mm換算28.8mm~432mm)と超広角ズーム(10mm~24mm)(35mm換算16mm~38.4mm)のセットで撮っていました。 最近になって器材のセットを持ち歩くのが厳しくなり、レンズとしてタムロンの16mm~300mm(35mm換算25.6mm~480mm)の広域ズームを中心とし、必要に応じてマクロや超広角ズームを使っています。 一方、ごく最近になって、超マクロ写真に興味を持ち、100mmマクロの使用頻度が高くなっています。 一時、ミラーレスの使用を考えましたが、交換レンズを含めるとかなり高価になることと、これから全く違うシステムに変えることへの不安もあり、壊れない限り、現在のカメラシステムで行くことにしました。 2-5.2023/02/20 フォト花の会の例会に出席し、前回に続き、マクロ写真6点(下の6枚)を提出しました。今回は「花のマクロ写真の5つの種類」という話をしながら、それぞれの例と思われる写真を見てもらいました。 (1)初めは「肉眼では見えないが、拡大(クローズアップ)してみると分 かる花の面白さ、美しさ、凄さ等を写す」というものです。次の写真 がその例で、花はムスカリ。ムスカリは肉眼で見ると、青い塊のよう にしか見えませんが、拡大して見ると、この写真のように「鈴の集 合」であることが分かります。 ムスカリ(自宅) (2)次は「自然の抽象的造形を見つけて写す」というものです。特に 何かに似ているというわけではないけれど、拡大することによって見 える、魅力的な形、思いがけない形、等を見つけて撮影するもので す。下の写真はその例です。 カラー(自宅) (3)次は「自然の具体的造形を見つけて写すと」いうものです。例え ば、花を拡大してみたら、何か具体的なもの、例えば動物に見えると か、人の顔に見えるとかいう例です。次の2枚の写真はその例で、上 の写真は花の先端が丸まっていて、角度を変えて見ると鳥のように 見えた、という例です。下の写真は葉の先端が鳥のように見える ことを見つけて写したものです(これは参考に出した写真です)。 カラー(自宅) カラー(自宅) (4)次は「模様の美しさ、面白さを見つけて写す」というものです。下の 写真がその例です。これは赤いカラーですが、花と葉の色や向う側の 花のボケ等でできた模様がきれいだったので、写真にしました。 カラー(自宅) (5)最後は、「幻想的・神秘的な光景を見つけて写す」というものです。 下の写真がその例です。こういう光景はあまり見つかりませんし、見 つけてもそれを写真にするのは難しいというのが実感でした。 ベゴニア(自宅) 2-4.2023/01/20 フォト花の会の例会に出席し、マクロ写真5点(下の5枚)を提出し た。 サボテン(自宅) プリムラ・アカウリス(自宅) ケール(自宅) ロウバイ(忠生公園) ロウバイ(忠生公園) 2-3.2022年11月に第31回「フォト花の会写真展」に「バラ」 「フジ」「クリスマスローズ」の3点(下の3枚)を出品。 バラ(花菜〔かな〕ガーデン) フジ(町田牡丹園) クリスマスローズ(自宅) 2-2.2022年8月に町田市フォトサロン主催の「ハス展」に2つの作 品(下の2枚)を展示。1枚目の写真は2023年の年賀状に使用 した。 ハス(薬師池公園) ハス(薬師池公園) 2-1.2022年7月に町田市フォトサロン主催の「ショウブ・アジサイ 展」に2つの作品(下の2枚)を展示。 ハナショウブ(薬師池公園) アジサイ(薬師池公園)
・7月日のフォト花の会例会(第二回選評会)に出席し、作品5点を提出する予定。
これまでに写した写真で自分でも気に入っているものを掲載します。 ハス(春日大社) ヨモギギク(軽井沢花木園) お花畑(富良野) タンポポ(函館公園) ガクアジサイ(自宅)
☆20230225から降順(数の大から小に進む順序)にしました。つまり、新 しいものが先(前、上)になります。 5-3.2023・1・29 ☆タウン誌『ショッパー』の2023年1月27日号の「みんなの広場」の 「とっておきのいち枚」に上掲(5-1.)の「湖畔のシルエット」が掲 載された。 5-2.2023/01/10 ☆江口愼著「花のマクロフォトレシピ」(2019年、玄光社)を参考にし て、マクロレンズを用いた超接写の作品への挑戦を始めた(2-4.の5 枚がその例)。 5-1.2022/12/29 写真関係でこの一年に取り組んだことは以下の3つ。 1.三脚が使えないところが増えてきたので、手持ちの撮影ができるように なること。 2.交換レンズをたくさん持ち運ぶのが重くて厳しくなってきたので、高倍 率ズーム一本(現在は16~300mm)で写せるようになること。 3.花を中心にしつつも、風景やスナップ等に領域を広げること。 ☆手持ちでレンズを一本に絞ったことで、以下のような良いこともあった。 ①レンズ交換が要らないので、撮影枚数(場面数)が増えたこと。 ②アングルや高さが自由なので、ある面で写しやすくなった。 ③旅行に一眼レフが持って行けるようになったので、風景写真が撮れるよ うになったこと(下の3枚)。 湖畔のシルエット(山中湖) 冬凪(ふゆなぎ)(伊豆・下田湾) 路上の月(東名高速) ☆なお、最近まで私は三脚を使い、マニュアルで絞りと露出を決める写し方 をしていたが、手持ちになって再び絞り優先に戻った。 ☆また、三脚を使用していたときは、もっぱらマニュアルで焦点を合わせて いたが、手持ちになってからオートフォーカスを使うようになった。その オートフォーカスもかなり進歩しているようなので、今後その辺の勉強が 必要だと思っている。 |
6.写真についてのエッセイ |
秋山庄太郎先生の思い出
2023年4月24日
山岸壯吉
私は幸運にも晩年の秋山庄太郎先生から薫陶を受けることができました。尊敬する方の話を身近に伺うことを「謦咳(けいがい)に接する」と言いますが、正にそのような体験でした。
先生はときどき(と言うより「ちょくちょく」と言った方がいいかもしれません)町田に来ておられました。町田には牡丹園、ダリア園、えびね園等々、花の咲くところが多く、花を写しに来ておられたのです。そればかりでなく、先生は町田市や写真愛好家の強い要望に応えられて、「町田市フォトサロン」という写真展示館を作られました。そこに私も通ったことが先生との出会いにつながったのです。
2.先生と花の写真
先生は30代くらいまでは人物写真が中心で、特に週刊誌の表紙に先生の写された女優さんの写真が載ると、週刊誌の売れ行きがよくなり、写された女優さんの人気も上がった、ということです。先生は字もお上手で、「花の会」というロゴもいくつか残しておられますし、料理屋のお品書きを先生が書かれると客が増えた、という話もあります。まだ売り出していないころの女優さんが写してほしいということで先生の事務所に来て、昼めしをごちそうになったりしていた、と言うことを聞いたことがあります。
その後、先生は40代半ばから花をライフワークとして写し始められ、「花の会」という全国組織を作られて、花を写す写真家を集められました。この会は最盛時には12000人の会員を擁し、各地に支部が作られました。中でも、東京支部、神奈川支部、福島支部、京都支部などの活動が盛んで、毎年の総会は京都で行われ、翌日は京都植物園で写真を撮るのが恒例となっていました。
私がこの「花の会」に入会したきっかけは、熊本に出張したときにいつも泊まって
いたビジネスホテルの1階にある本屋で「花の会」の写真集を見たことです。花の写
真を中心に撮っていた自分には、ぴったりの会だと思い、「花の会」の本部に電話をして入会させていただきました。
3.「花の会東京町田支部」発足
先生とお会いしてからしばらくして、先生から「『花の会』の『町田支部』を作ったらどうだ」というお話があり、フォトサロンで知り合った仲間が集まり、「花の会東京町田支部」が結成されました。
なお、2003年に先生が亡くなったあとも「花の会」は2~3年続きましたが、1万人以上いた会員がどんどん少なくなり、解散してしまいました。そのあと、「全国にあった支部で活動を続けたいところは、『花の会』という名前を使って独立してもいい」という方針が出たので、「花の会東京町田支部」も「フォト花の会」として独立し、今に到っています。
4.「花の会」の審査
「花の会」の毎年の写真展に向けての審査は5枚のスライドを郵送し、審査で合格したものは本部に残り、通らなかったものは返送されてきました。ときには5枚全部返送されてきて、追加で送ることもありました。しかし、最終的には一人1枚が展示会で展示されました。
「花の会」に入会して数年後に審査風景を見に行きました。場所は先生の事務所の近くにある会館でした。スライド映写機で映し出された写真を先生がご覧になって、お眼鏡に適えば手を上げられました。しばらくすると審査が中断したようなので、見ると、先生が居眠りをしておられました。すると周りのお弟子さんたちが、ひそひそ話で「それでは、私たちでやりましょう」と言われて、審査を続けられました。そのうち、先生が目を覚まされ、先生による審査が続けられる、というほほえましくも優しい光景が展開されました。
5.「花の会」の展示会
銀座の数寄屋橋のギャラリーで行われた「花の会」の展示会には初めに秋山先生以
下本部の方々の写真が並び、そのあと、東京支部以下の支部毎の写真が並びました。
展示の順序はそういうことでしたが、うれしいことに写真の装丁は皆平等に行われていました。ある年の展示会へ母を連れて行きました。そのとき秋山先生が会場の真ん中の椅子にでんと座っておられて、母を紹介することができました。
先生は「東京町田支部」の例会にも時々出席され、直接コメントしてくださいました。高名な先生の指導を受けることは夢のような経験でした。
あるとき、先生が「僕の事務所で例会をしないか」と言われたので、みんなで西麻布の事務所にうかがいました。すると、先生がおられなかったのです。内弟子の方に聞いたところ、「先生のお兄様がデパートにケーキの店を出しておられ、そこへ皆さんのためにケーキを買いに行っておられるのですよ」とのことで、大いに感激しました。しばらくすると、先生が戻ってこられ、ケーキをいただきながらの例会となりました。
先生は亡くなる少し前に町田のお寺に牡丹を写しに来られ、私もお供しました。
そのときはもう両側を弟子たちに支えられて、やっと歩いておられるという状態でした。ところが、牡丹の前に立たれた時です。先生は「カメラ!」と叫ばれて、お弟子さんがカメラを渡した途端に姿勢が良くなり、一人で立たれて、連続して20枚くらい写しておられました。
私はこの光景を見て、武道の神様と言われた合気道の塩田剛三先生のことを思い出しました。塩田先生も亡くなる少し前に道場に来られ、それこそ両脇をお弟子さんに支えられて、やっと道場の真ん中に立たれたそうです。すると途端に姿勢がピンとなられ、何人ものお弟子さんを投げ飛ばしておられた、ということです。
いずれも、その道の達人と言われる方々は、亡くなる直前でも、脚光を浴びる「晴れの舞台」に立たれると、しっかりと仕事をされるものだな、と驚嘆しました。
先生のお墓は奇しくも町田市内にあり、私は車で墓所の前を通る度に先生のことを思い出し、頭を下げています。秋山先生、本当にありがとうございました。
以上