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《十字架について》
(2018年成瀬教会壮年会資料)
2018年12月2日
山岸壯吉
今回は十字架について、「歴史」、「種類」、「十字架上の救い」、「十字架の示唆するもの」等について話します。
1.十字架とは
1-1.宗教的な象徴としての十字架(世界大百科事典、平凡社)
現在、十字架はキリストの象徴として用いられているが、キリスト以前から諸宗教が十字架を信仰的な象徴として用いていた。
例)
①バビロニア人・カルデア人:天の神アヌ神の象徴として等辺十字架(ギリシャ式十字架を使用。
②古代エジプト人:永世の象徴として輪付十字架を使用。
③ギリシャ神話:アポロン神が十字架の笏(しゃく)を持つ。
④ゲルマン神話:トール神が同形のハンマーを持つ。
⑤その他、ヒンドゥー教、古代ペルシャ人、フェニキア人、エトルリア人、ローマ人、ケルト人、メキシコ・中央アメリカ・ペルーなどの住民などが十字架を宗教的象徴として使用。
1-2.十字架の種類(世界大百科事典)
1.ギリシャ式、2.ラテン式、3.アントニウス式、4.アンドレア 式、5.叉型(Y型)、6.輪付型、7.鉤型(まんじ)、8.二重型、9.クローバー型、10.撞木型、11.イェルサレム型、12.ロシア型 (八端十字)
[解説]
1.のギリシャ式十字:東方正教会で使用。縦木と横木が同じ長さなのが特徴。
2.のラテン(ローマ)十字:最も一般的で、カトリックもプロテスタントも使用。縦木が横木より長いのが特徴。
12.のロシア型(八端十字):東方正教会で使用。上の横棒はイエスの罪状書き、下の斜めの横棒は処刑台の足台を意味していると言われている
2.イエスの十字架上の救いについて
十字架を重罪人の磔刑に用いたのは、おそらくフェニキア人が最初である。ローマでは十字架への磔刑は「国家反逆罪」への罰だった。あまりに残酷な刑なので、極めて罪の重い場合のみ用いていた。キリスト教がローマで普及するにつれて、十字架を死刑の具とすることは廃止された(以上、世界大百科事典)。このような、もっとも残酷で、もっとも敗北的・屈辱的な十字架が、神が人類の救済のために設けられた勝利の救いの道となったわけで、これ以上の逆転はないのではないか。
3.「イエスの十字架上の死があがない(人類の罪の代わりとなるもの)になる」ということを聖書はどのように記しているか(1961年版「聖書事典」:日基教団出版部)。
- 旧約聖書から
「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって わたしたちはいやされた」(イザヤ53・5)
「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた」(イザヤ53・6)
「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」(イザヤ53・12後半)
- イエスご自身の言葉から
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・45)
- パウロの書簡から
「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じるものすべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」(ロマ3・21~25)
4.十字架が示唆していると思うこと
4-1.人間の歴史への神の介入(介在)
・横棒が「人類の歴史」、縦棒が「神の介入」:創造から現在まで神は常に人類と関わっておられるわけであるが、十字架による救いという形で、特に強く介入された。
・縦棒の長さが神の介入の力強さ、重要性を表している。
・律法を守ることは人類にはできなかったので、新たに「十字架上での御子イエスの贖罪」という救いの道を示された。
4-2.ケリュグマとディダケ―
・十字架の縦線は「ケリュグマ」、横線は「ディダケ―」を表していると思う。
・「ケリュグマ」はギリシャ語で「宣教」を意味する(ブリタニカ国際百科事典)。つまり、聖書が示している福音の宣教内容を指していると考えられる。
・「ディダケ―」はギリシャ語で「イエスの教えを実践するための教示・訓育」を意味する(大辞林第三版)つまり「ケリュグマ(宣教)に基づいて、どのような生活をすることが望ましいか」という、この世での信仰者の生き方の指針を与えるものと考えられる。
・ローマ書は第1章から第11章までがケリュグマ(宣教内容)を記し、第12章~第15章までがディダケ―(勧め)を記す、という構造になっている。この順序が「救いが先で、その結果として行いがある。つまり①行いは救いの条件ではないこと②信じる者の行いは救いへの感謝の応答により行われる」ということを示唆していると思う。
4-3.信仰生活(縦棒)とこの世での生活(横棒)
・日本のような仏教・神道が生活に根付いている国では、特に両立が難しいと思う。
〈実際に体験した例〉
- 会社の構内に神社
会社の屋上や、工場の敷地内に神社があり、特に正月の初荷のときには、神主を呼んでお祓いをしてもらっていた。工場の責任者であったときには、参加しないわけにもいかず、戸惑いを感じたことがある。
- 日曜出勤
会社では仕事の納期が間に合いそうもないと土曜日や日曜日の出勤を頼まれた。特に困ったのは、教会で行事があるときで、ある年のイースターの日に日曜出勤を頼まれ、止むを得ず出勤したことがある。翌日、上司から「昨日はイースターだったのに君は出勤したのか、困ったクリスチャンだね。言ってくれればよかったのに」などと、後から言われたこともある。
- 武道館に神棚
仕事で赴任した熊本で太極拳の道場を開いたが、武道の盛んな地で、どのような小さな町・村にも立派な武道館がある。私も人吉市武道館を利用した。ある時、気分転換で、太極拳の演舞の向きを反対方向に変えようとしたら、「神様にお尻を向けるつもりか」と叱られた。
- その他の例
①ある日本基督教団系の教会の会報に「朝早く初詣に行って、急いで教会に行って礼拝に出席した」という記事が載っていた。②クリスチャンでクリスマスのリースと正月の松飾りを同時に飾っている人がいた。
福音系の教会出身の私たちから見ると、これらのことは疑問に感じる。
☆聖書はこの点をどう言っているか。
・「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛(くびき)につながれてはなりません。・・・信仰と不信仰に何の関係がありますか。」(Ⅱコリント6:14~15)
・「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18)
5.終わりに
このように、歴史と種類と信仰的な意味があり、いろいろなことを示唆する十字架に今後も関心を持っていきたい。
以上
《 英文聖書雑感》
マタイ18:14に「そのように、これらの小さい者の一人が滅びることは、天にいますあなたがたの父のみ心ではない」とあります。この「これらの小さい者のひとり」が英語訳(RSV )では“one of these little ones”と訳されています。日本語でははっきりしませんが、小さい者の者がoneの複数形であるonesになっています。つまり、羊の群れは一つのかたまりとしての群れではなく、一匹一匹の集まりとしての群れとして扱われており、それだけ一匹一匹が大切にされているということだと思います。羊飼いは迷い出た一匹の羊だけを大切に思い、残りの九十九匹はどうでもいいと思ったわけではありません。残りの九十九匹の内の一匹がいなくなれば、同じように捜しに出かけるに違いないのです。このように、神様は私達一人一人を大切にして下さるのです。
信仰者もoneであると同時にonesでなくてはならないと思います。すなわり、oneとして一人一人が静かに神と向き合う信仰生活を送る、と同時に、onesとして信仰の仲間と力を合わせて、祈り、奉仕し、励まし合うことも必要だということです。
2.先の者とあとの者
マタイ19:30に「しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう、」とあります。この「先」と「あと」が英語訳(RSV )ではfirstとlast になっているのです。日本語の訳では単に二人の順番が入れ替わるという程度の意味にとれますが、英語訳ではもっと極端で、「先頭を走っていた人がビリになる」というぐらいの意味になります。信仰について言えば、「自分では一番天国に近いと思っていた人が一番遠くなってしまった」というぐらいの意味になると思います。
それで思い出すのがルカ18:9~14のパリサイ人の立場です。彼は天国に行けるのは自分のような正しい人であって、取税人のような罪人ではない、と確信していました。ところが、神様の判断は全く逆だったのです。私達もこの世で成功しているときはすでに天国にいるような気がするものですが、得てしてそういう時は救い主の必要性を感じないものです。「神無き成功は天国より地獄に近い」ということを忘れないようにしたいものです。
3.よい方を選んだのだ
ルカ10:38~42にマルタとマリアの話があります。(概要)その42節に「マリヤはそのよい方をえらんだのだ」という言葉があります。このところが英語訳(RSV)では、Mary has chosen the good portion.となっています。このように日本語では「よい方」と訳されている言葉が英語ではthe good portionとなっているのです。つまり日本語では、「マルタとマリヤを比較すると、マリヤの方がよい方を選んだ」というような意味にとれますが、英語訳によると、「救いのために大切なことは一つだけで、マリヤはそれを大切にしたのだ」という意味になると思います。イエスはマルタに対して、彼女が働いてばかりいるのを非難しておられるわけではなく、「どんなに立ち働いているときでも、マリヤが選んだ、その大切な一つのことを忘れてはいけないよ」と教え諭しておられるのだと思います。この大切な一つのこととは「信仰義認」(ローマ3:28)ではないか、と私は思います。
このように私達も、この世のことばかりでなく、教会での奉仕においても、目まぐるしく動きまわっていて、マリヤのように「神のみ前に静かにひざまずく」という信仰の原点を忘れることのないように、気をつけたいものです。
《私の愛誦聖句》
箴言30章7~9節
山 岸 壯 吉
「二つのことをあなたにお願いします。私が死なないうちに、それをかなえてください。不真実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。」
この段落の中心は「ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。」という部分だと思います。これは食べ物だけのことを言っているのではなく、私たちの生きる姿勢全体が教えられていると思います。そのことをもっと明確に示しているのは文語訳です。文語訳ではここの部分は「唯(ただ)なくてならぬ糧(かて)をあたへ給へ。」となっています。
ここで言う「糧」は食べ物だけではなく、財産も才能も名声も・・・要するに、それが多すぎれば自分の力でやっていけると思って主を忘れてしまう恐れがあり、少なすぎれば主の悲しまれるような道に進んでしまう恐れがある、そういうもの全般を言っていると解釈することができると思います。例えばインテリがクリスチャンになりにくいというのは「自分は優れた才能や知識を持っているから、神の助けなど必要ない」という思い上がりから来るのでしょう。
また、世の中も経済的に豊かになることばかり追求する傾向にありますが、もっと大事なことがあることをクリスチャンは生活を通して証しする必要があると思います。逆に極端な逆境の中にある人に伝道する場合は、まずその人の状況を改善してあげることから始めるべきではないでしょうか。
主の祈りの「日ごとの糧をあたえ給え」という部分も、「有り余る糧ではなく、その日に私にとって必要なだけの糧をお与えください」ということで、この箴言のみ言葉に通じる精神だと思います。
この精神に基づき、私は日頃のお祈りで、例えば何かのための力を求めるとき、「~のために必要なだけの力をお与えください」と祈るようにしています。